May 12, 2011

ウォーターサーバーは、安全でおいしい水

水は安全であると信じていたが、残念ながら例の放射能漏れ事故で、その神話も疑われた。特に小さい子供のいる家庭では水道水はちよ引き続き不安定というのが本音なのだ。それでよく薬局などに置かれているウォーターサーバーを一般家庭で使用する方法を思い付く。水道水は、カルキ臭して、おいしくて安全な水を飲みたいと思うのは普通の願いである。私もウォーターサーバーと思います。
ある日、家の風呂の脱衣場で、床抜ける事件が発生した。どうやら水道管から水が漏れるようで、長い年月をかけて床が腐ってしまったようだ。床の修理費もそうだが、水漏れによる過剰水道料金も気になります。そんな水周りの問題を事前にチェックすることができる方法やツールがあれば良かったと思っています。
オルタナティブ・ブログ抱き込め!ユーザー、巻き込め!デベロッパーの筆者妹尾高史さんは、良くいえば器用貧乏、悪くいえば飽きっぽい性格のようだ。仕事も習い事も、ある程度達成できると変化を求めてしまうのが悩みだという。そんな自分を受け入れられなかった妹尾さんが悩みに悩んで得た答えは、自分自身を認めることだった。

●努力が苦手な少年

 妹尾さんが「ピアノを弾く!」と、宣言したのは幼稚園生のとき。先生がピアノを弾く姿を見て、「かっこいい!!」と思ったのだ。両親は特に音楽に詳しいわけではなかったが、子どもが自分からやりたいと言うなら、ということで、すぐにクラシックピアノの教室を見付けてピアノも購入してくれた。

 ピアノ教室の先生は厳しい人で、強く叱られることもあったという。「小学生のころは、努力のきらいな典型的な怠け者」だったという妹尾少年は、自分からピアノを弾くと宣言したにもかかわらず、あまり熱心に練習をする方ではなかった。ただし、「歌謡曲を耳で覚えて、自由に弾くのは楽しかった」と当時を振り返る。

 ピアノのレッスンはしばらく続けたが、中学1年生のときに辞めてしまう。発表会で年下の小学生が見事に演奏する姿を目の当たりにして、妹尾少年の心が「折れて」しまったのだ。

●ミニ鍵盤との出会い

 小学生時代、好きな科目は図画工作だった。「作る」ことが好きで、近所の空き地に置いてあった建築資材を勝手に使って大規模な秘密基地を友達と作ったりもしたという。「ピアノを弾くお坊ちゃま」というよりは、腕白坊主だったらしい。とはいえ勉強も、ある程度はできる方だった。

 中学校は自転車で15分ほどの公立に通った。部活動は囲碁将棋部。選んだ理由は格好いい先輩に勧誘されたからで、特に囲碁や将棋が好きだったわけではないらしい。それでも部室には頻繁に顔を出していた。「学校の中に自由になるスペースがあるのは、なんだかうれしかった」とのこと。とはいえ、没頭していたのは五目並べだったそうだが。

 五目並べ以上にハマったのは、アニメーションの「超時空要塞 マクロス」だった。理由は、劇中音楽。作曲家の羽田健太郎氏が手がけた音楽がストーリーの世界観と相まって、とても共感できたという。あまりにもマクロスにハマったので、関連するものを「集める」マニアではなく、マクロスのオリジナル小説を執筆する「作る」マニアになった。

 「小学生のころは、文章を書くのは大嫌いでした。それが、マクロスにハマって小説を書くようになり、書くことが苦にならなくなりました」とのこと。得意ではなかった国語の成績も、小説を書くようになってからかなり上がったそうだ。オリジナルストーリーをプラモデル雑誌に投稿して賞品をもらったこともあった。ラジオ番組にも投稿するようになると、番組内で自分が書いた文章を読まれることがうれしかった。こういった体験が、いまのブログ執筆にもつながっているのかもしれない。

 音楽の方はどうなったかというと、ピアノのレッスンは辞めたが、同じころ「モノフォニック・シンセサイザー」を両親に買ってもらった。これが妹尾さんと「ミニ鍵盤」との出会いだった。しかしこのシンセサイザー、単音しか出ないという代物だったという。

●バンド中心の学生時代

 高校は進学校に合格し、ご褒美として当時最もメジャーなシンセサイザー「DX7」を手に入れる。クラブ活動はもちろん軽音楽部だ。男子のキーボード奏者は珍しかったし、ピアノの素養があり、立派なキーボードまで持っている妹尾さんは、かなり重宝された。いくつものバンドを掛け持ちするようになり、「ヴァンデンバーグにサバイバー、ナイトレンジャーなど、ハードロックからフュージョンまでなんでも演奏しました」

 そんな人気者だったにもかかわらず、妹尾さんはバンド活動にそれほどのめり込まなかった。さらに、勉強からの逃避もしばしば。「丸2日かけて全15巻の漫画を一気に読んでみたり、勉強をさぼったりすることが多かった」。そんなわけで、成績が学年で下から2番目という教科もあったとか。

 大学は、1年浪人して関西学院大学の商学部へ。当初はものづくりに興味があったので理系を志望していたのだが、入試日程を調整していく中で文系も受験することになり、なぜか結局、商学部に落ち着いてしまった。これだという目標を定め、それに向かって努力し突き進むというよりは、状況の変化に合わせて柔軟に立ち振る舞うという、学生時代までの妹尾さんらしいエピソードだ。

 大学でも軽音楽サークルに一時期所属するなど、バンド活動を続ける。ここでも妹尾さんは引っ張りだこで、サークル以外のバンドにも誘われてあちらこちらで演奏する。そんな活動を通して、後に奥さんとなる彼女とも出会った。

●意図せぬIT担当

 音楽は好きで続けていたが、プロを目指すのはちょっと違うなと感じていた。そのため、大学を卒業したらとにかく「社会人」になると決めていた。当時は、環境問題が注目を集めていたので、自動車や物流で環境を改善する仕事をしたいと考えていた。いくつかの会社を受けて、最終的に大阪の自動車メーカーに総合事務職として入社。配属希望は1番目が技術系の製品企画、次が物流、そしてお客様相談室だった。

 ところが実際に配属されたのは、情報システム部。それも本社ではなく、販社向けのシステム企画や構築、問い合わせ対応をする部隊だった。文系出身の妹尾さんには、当然ながらコンピュータの経験はない。当時はオフコン上にCOBOLで組まれた専用システムがあったので、それを構築するための簡易プログラミングを勉強することから仕事が始まった。「きちんと動いていないプログラムがあり、それを1から勉強して動くようにしました。その後、システム構築として最初から対応することになるのが、消費税率の変更にともなうシステム改修でした」

 勉強の成果が上がり、ある程度プログラムが組めるようになったころ、当時流行っていた「マルチメディア」システムを担当することになった。「販社に配ったノートPCの上でイメージを表示して商品説明をしたり、すぐに見積もりを出せたりするシステムでした」。開発言語はVisual Basic。一部機能をほんの数カ月で作れという命が下ったが、周りに経験者がいなかったので、すでにあった表示系機能のプログラムソースを毎日12時間くらい眺めて、独学で勉強したという。

 この経験でVisual Basicのスキルでは社内で一目置かれるようになり、プログラムを作ってからも、各販社に使い方を説明して教育をするところまでを1人で担当した。結局情報システム部には、2年と2カ月渡り在籍した。

●営業での苦労、そして東京へ

 情報システム部の仕事は達成感があった。しかし、もともとシステム開発の仕事を希望していたわけではなかったことに加え、販社向けのシステム開発を通じて営業に興味を持ち始めた妹尾さんは、営業部門への異動を希望しはじめた。その会社では営業部門の若手スタッフは当然のように販社へ出向するものだったこともあり、異動と期を同じくして地方の販社に出向することになり、営業としての生活が始まった。

 覚悟はしていたが、自動車の営業は、甘い物ではなかった。目標は厳しく心理的にもつらい日々が続き、「くじけそうになったこともあり、もう自動車業界なんてやめてやると思ったこともありました」。とはいえ、たくさんの自動車販売の「いろは」を勉強した時期でもあり、貴重な経験をしたと妹尾さんは当時を振り返る。

 出向時に決められた3年が経ち、妹尾さんは再び本社に戻る。今度の配属先は営業部門の中のOAツールを使って業務改革をするという部隊。企業がインターネットを活用するようになったころで、忙しい毎日が続いた。そして、彼にまた迷いが生じる。「仕事に対する自信もあったしやりがいもあったのですが、このまま大阪というロケーションでお山の大将になっていていいのかという疑問がありました」。IT系の中心は東京。大阪で認められても世の中ではどうなのだろうか、と思ってしまったのだ。

 その後機会があって、念願の東京行きのキップを手にした妹尾さん。しばらくして自動車メーカーの営業部門でIT活用を推進するという、過去と同じような仕事に従事した。そして5年ほど頑張ったころ、また1つの考えが彼の頭をよぎる。「自分がこれまでやってきたことを表現してみたい」

 表現の場を探してインターネットを彷徨っていたとき、たまたまGoogleで検索して1番上に表示されたのが、後に執筆することになるオルタナティブ・ブログだった。ときどき読んでいるブログもちらほらあり、これだと思った。「ページの下の方に『ブロガー募集』というリンクがあったので、さっそく応募しました」。ブロガーには業界で有名な人が多く審査を通るか不安だったそうだが、無事採用され、2006年11月にオルタナデビュー。ブロガー同士の交流会では、自分はここにいてもいいのかと不安にもなったこともあったとか。

 ブログを書き始めて1年ほどしたころ、またまた転機が訪れる。現状に漠然とした不満を感じ、だんだんと人生や仕事を見直すようになったのだ。そして、このころ「価値観が変わった」と妹尾さんは言う。同時に、当初は自分のこれまでの実績をアピールする場だったブログの内容や書き方も変わってくる。「書く本数は減ってしまいました。内容もある意味、ぐっと軽くなったかもしれません」

 ところで、仕事環境にはさまざまな変化があったが、社会人になってもバンド活動はずっと続けていた。大阪時代のバンドも続いていたし、東京でも複数のバンドのサポートに借り出されていたのだ。そして、価値観が変わった後に出会った人たちと新たに結成したのが「偽YMO」というコピーバンド。Y(寄り集まって)M(ミニ鍵盤いぢる)O(おぢさん達)の略で、演奏するのはもちろんYMO(Yellow Magic Orchestra)の曲だ。

 「mixiでミニ鍵盤のコミュニティを作ったのがきっかけです。こんなコミュに関心ある人いるかなと思ったら、意外と集まってオフ会をするまでに。そのオフ会で出会ったメンバーと結成したのが『偽YMO』です」。とにかくいまはこれが楽しくてしょうがない。Webサイトを立ち上げたり、演奏している様子を動画サイトに投稿したり、コンテストに参加したり、と積極的に活動している。

●中途半端でもいい

 「仕事を始めてから、だいたい2年周期で部署を変わりたくなったり、仕事の内容に変化を求めたりするようなところがありました。だから過去にやってきたことは、自分にとって全部中途半端だった。昔はそれを、どうしても受け入れられなかったのです」

 妹尾さんの価値観が変わることになったきっかけは、こういった考えに悩んでいたからだ。深く悩み、家族にも何度も相談した。だが、彼は1つのことを極めないタイプだったわけではない。器用なので、何をやっても比較的スムーズにある程度のところまで登りつめてしまう。だからこそ、さらに上には上がいることを知ると、諦めるかどうかを悩んでいたのではないだろうか。

 そして、悩み抜いた末に導き出した答えは、「自分の中途半端さを受け入れること」だった。「中途半端であればこそできることもある。そういう人間だからこそできることがあるなと思いました。これ、ある意味開き直りかもしれません」。不完全な自分を認める。むしろそれを楽しむ。人は、必ずしも何かを極めなくてもいい。どっちつかずだからこそできることもあるし、それを楽しんでもいいと思い至った。そう、彼が求め続けた答えは、彼自身の中にあったのだ。

 「ミニ鍵盤って鍵盤楽器としてはかなり中途半端なんです。できないことがたくさんある。そこが自分と一緒なのかなと思っています」。妹尾さんは、ミニ鍵盤を楽しむようにこれからの人生を楽しむ。ラブサーチ彼はこれから「中途半端の楽しさ」を極めていくのかもしれない
Posted at 12:49 in Woman | WriteBacks (0) | Edit
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